「爪、伸びてきたね」

周助の白く長い指が、私の手の甲を滑った。
その指の動きがとてもなめらかだったのは、私の肌が綺麗だからではなく、周助の指が美しいからだ。
少々の嫉妬を覚える程度には、周助は爪先まで美しい。

「爪切ろうか、

前髪の下から覗く周助の目が、柔らかく細められた。
どうしてか周助は、私の爪を切るのが好きなのだ。
まだ返事もしていないのに周助は私と並んで座っていたソファーから立ち上がり、爪切りを取りに行った。
どうせ周助は私に断らせないのだし、それをわかりきっているくらいには周助との付き合いも長くなったものだから、私は私で小さく息を吐いて周助のいなくなったスペースに体を倒す。
真横になった視界の端で、周助が爪切りを持って来るのが見えた。
テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、なんとかボタンを押してテレビの電源を点ける。
昔見たことのあるドラマの再放送が流れていた。

「これ、恋愛系だっけ?」

ソファーの前に跪いた周助も見覚えがあるみたいだ。

「ううん、医療サスペンス。恋愛あんまない」
「ああ、そうだったそうだった。の好きな俳優出てるよね」
「うん」
「なら消していいね」

と、問答無用でテレビを消された。
私が頑張って手を伸ばしてわざわざ点けたのに。
唇を尖らせて、周助に軽い非難の目を向ける。

「俳優に嫉妬とかするキャラじゃないくせに」
「そうでもないよ」

私の目線なんてそよ風未満なのだろう、周助はニコッと笑っただけでテレビを点けようとはしない。
なので再びリモコンへと右手を伸ばしたが、その手はリモコンに届く前に周助に捕まった。
捕まると言うよりも、制されると言った方がいいかもしれない。
ふわりと雪が落ちてきたような優しい手つきだったから。

「さて、爪を切らなきゃね」

それは振り払える手だった。
けれど私は周助に大人しく従って、そのまま右手を預けることにした。
いつものことだ。
テレビも消えて、私と周助の息遣いだけが聞こえる静かな部屋に、パチン、という爪を切る音が響いた。
パチン、パチン。
指先に爪切りの冷たい刃が当たる度、身じろぎしたくなるのを唾を飲んで我慢する。
いつもいつもこの瞬間がたまらなく恥ずかしい。
多分、というか確実に周助は私のこの妙な羞恥を知っている。
たまにクスリと笑うもの。
ほら、今も。
私の手に視線を落としている周助の顔は殆ど見えないけれど、口元は見えるのだ。

「周助、」
「テレビなら点けないよ?」
「・・・・・・ケチ」

テレビが点けば、爪切りの音も感覚も、誤魔化せるのに。
そんな恨み言も周助には通じない。
小指から薬指へ、薬指から中指へ、丁寧な手付きで周助は爪を切っていく。
ソファーに横たわって片手を差し出している私に対して、周助は絨毯に跪いて恭しく私の手を取っているものだから、何の変哲もないリビングな筈なのに私はお姫様にでもされている気分だ。
だとすると爪を切る周助は使用人とか執事の役割になるのだけれど、周助の風貌や物腰は完全に王子様のそれだった。
惚れた弱み、というわけでもなく、俯瞰的に見ても周助は王子様と称するに相応しい造形及び人格であると言い切れる。
たとえ爪を切っていたとしてもそれは変わらず、周助は白く輝いて見えた。
淡い光が周助を澄んだ空気に溶かしていくような、そんな聖なる何かに。

「右手終了。次は左手」
「ん」

なるべく動かないようにしていたものだから落ち着かず、左手を差し出すと同時に体勢を変える。
ごろんを仰向けになった私の目には天井の白さが眩しく入り込んできた。
部屋の電気に目を細めることはないけれど、視線を動かした先の周助には目を細めてしまうのは何故だろう。
そして周助が笑いかけてくれると、私の頬が緩むのも何故だろう。
指先を包むささやかな体温、静かな部屋に確かに息づく2人の呼吸、白く淡い光の粒子が溢れていくような幻想。
全ては些細なことなのに、幸福を感じる。
何故か、なんて答えはとっくの昔に知っている。

「周助」
「何?」

パチン。
左手の小指の爪が、切り取られた。

「言ったことなかったけど、私ね、一目惚れだったよ」

薬指の爪を切ろうとした周助の手が、止まった。
緩慢な瞬きはとても周助らしくなかった気がする。
その後の瞳も、およそ周助らしくなかった。
驚愕と動揺と歓喜と、あとなんだろう、可笑しそう、だった。

「なんでそんなこと今言うの」
「・・・・・・なんとなく?」
「何それ」

そしてフッ、と小さく吹き出してクスクス笑う周助は面白そうで楽しそうで、私は自分が安心していることに気付いた。
一目惚れに引かれなかった、という理由での安心ではない。
言ってしまえば完璧な王子様である周助が、私と同い年の等身大の男の子なんだと実感した安心感だ。
どんなに周助にお姫様のように扱われても、私は決してお姫様にはなれないから、こういう瞬間とても安心する。

「ああ、どうしよう
「何が?」
「僕ね、すごく嬉しいみたいだ、一目惚れ。とてもとても嬉しいよ」

周助の頬に赤みが差して、無邪気さに染まった笑顔に今度はこっちが嬉しくなってしまう。
すると、周助は丁度手にしていた私の左手の薬指の根元に軽くキスをした。
漏れていた私の笑顔は引っ込んだ。

「予約」

それだけ言って、周助は照れ臭そうに目配せを送った後、静かに爪切りを再開した。
とても重要なことを言われたしされた気がするが意識してはいけないと思い、私も押し黙る他なかった。
けれど意識しない意識しないと思えば思うほど、薬指に意識がいってしまう。
刃の冷たさも周助の指使いも、爪を切る音も髪の僅かな揺れも、全てが鮮明に感じられる。
想像する。
薬指に、小さな光が周助の美しい指によって灯されるのを。

「予約、キャンセルしたら許さないから」

もごもごとした、それはそれは恥ずかしいという思いに溢れた物言いになった自覚はある。
私と周助の間にあったはずの優しく温かな空気が、とても甘ったるくなったことにも気付いていた。
当然、自分の顔がどれだけ赤いのかも。

「キャンセルは有り得ないよ」

顔を上げない周助の耳もまた私に匹敵するくらい赤かった。
今の会話がメールのやり取りだとして、語尾にハートマークでも付けて文面に起こしてみろ。
すぐに別れるカップルの会話としか思えない。
でも、嬉しいし幸せだからしょうがない。
それに本気なのだからますます仕方がない、お手上げだ。

「・・・・・・」
「・・・・・・」

お互いが無言のうちに、周助は人差し指まで爪を切り終えていた。
心なしか、周助の触れる指先が熱い。
パチン。
親指の爪は硬いからか、その音はより大きく部屋に響いた。
パチン、パチン。
何かのカウントダウンのようなその音に、妙に心臓が脈打つ。
2人の間に流れる空気、声なき声。
この後私達はどういう行為に移るのか、勿論知っている、知り尽くしている。
パチン。
手の爪が、全て切り終わった音がした。
腰を上げ、周助の手がソファーにかかり、私の体に周助の影が覆い被さる。
私は小さく唇を開けて、周助を制するように胸元に手を置いた。
周助は少し煩わしそうにした。

「ね、周助」

言葉なんて要らないだろうと言いたげな、切なく寄せられた眉間の皺はとても愛しい。

「何」

性急な声、きっと私しか知らないのだと思うとキューンとする。
そしてこれから、私が周助にすることを思うともっともっとキューンとする。

「足も」
「え」
「足の爪も、切ってよ」

周助の恨みがましい目は希少価値が高い。
いわゆるお預けを食らわせてやった私はというと、少々鼻が高い。

「本気で言ってる?」
「本気。足の爪も伸びたの。切ってくれなきゃ、いや」

私の笑みに周助は何を思ったのかは周助にしかわからないが、きっと「このアマ・・・」といったところだ。

は可愛いけど、たまに可愛くないね」
「褒め言葉だね」
「まあね」

小さな「後で覚えときなよ」という呟きは聞かなかったことにする。
周助はギシ、と膝をかけていたソファーから降りて私の足元に座る。

「脱がすよ」

いちいちそんな言い回しをする周助がちょっと可愛く思えてしまったものだから、私も末期だなと思う。
するすると靴下を脱がされ、左足が周助の眼下に晒された。
片方の足だけ素足というのは中々気になるもので、右足も脱がしてほしかったのだが、周助にその気はないみたいだ。
この微妙さもまた「おしおき」といったところなのだろう。

「ちょーっとムカついたけど、足も良いものだね」

周助の人差し指がつーと足首から足の甲、指先へと降りていく。
ぞくっとしたのは言うまでもない。

「切ってあげる。丁寧に」

そして不穏な笑みを浮かべる周助にも、またぞくっとした。
けれどそれを察して欲しくない私は、余裕の笑みを浮かべる。

「お願いね」

どこかのお姫様を気取って。





パチン。パチン。
足の爪を切る間、私達は無言だった。
踵を触り、脛をたまに撫でる周助の、控えめに言ってもいやらしい手付きに私は気付けば唇を噛んでいた。
パチン。
周助に足の爪を切られる度、鱗を剥がされていくような気分になる。
私の強がりも弱さも、何もかもが剥ぎ取られていくのだ。
こちらをたまに見上げる周助の目が蕩けるような視線を送ってくるから、余計に私は曝け出してしまう。
私の全部、私の雌の本性を。

「僕に我慢させたのはだからね」
「わかってる・・・・・・」

改めて状況を確認するが、私の素足が周助の目の前にあるというだけでなんだかとても扇情的な光景だった。
パチン。
左足の爪は終わり、周助の手が右足の靴下にかかる。

「あと5本の辛抱だよ、
「うん」

これではどっちがどっちにお預けを食らわせたのはわからない。
そこに思い至った私は、自分を有利にしなければと頭を回転させたのだが、妙案は思い付かなかった。
ここまで来たら有利も何もないのはわかっているのだが、気持ちの問題だ。
外気に晒された右足が、周助の手に包まれるのを感じた。

の足、可愛いよね。硝子の靴履かせたいくらいだ」
「硝子の靴って、実際に履いたら血塗れになるんだってさ」
「空気を読もうよ」
「そっちこそ」

空気を読んだのなら、シンデレラなんてのん気な話をしないで、さっさと爪を切るべきだ。
私のそんな思いを汲み取ったのか、周助は「はいはい」と笑って爪を切り始めた。

「でも、いいかもね。僕がの靴を選んで履かせるの」

パチン。
足の爪は親指から切り始めるのは何故なのか、ということを聞ける雰囲気でもなく、私は黙って周助の話に耳を貸す。

「いつも履かせてもいいんだけど、やっぱり特別な時にしよう。たとえばウェディングとかね」

足首に添えられた周助の手が、私のくるぶしを小さく撫でた。

「楽しみだな。その日が」

パチン。パチン。
爪が、貝殻の形に揃えられていく。
私は何も言わないのではなく、声が出なかった。
喉が熱く、胸が苦しく、目が少し潤む。
私の体中を支配しているものの正体を私は知っている。
パチン。
愛情とか幸福とか、そういうのだ。

「ねえ、

周助の手によって爪を綺麗に整えられた両手が、甘く震える。
足の爪先から、痺れる。

「今、何考えてるの?」

周助の目線に、耐えられなかった。
体中の熱が一気に高まって、私は思わず目を閉じた。

「別に・・・、ただ、周助のことが好きだな、って」

ロマンチックなことは何も口から出なかった。
拙い言葉は、初々しい震えと熱に犯されていた。
生娘じゃ、あるまいし。
けれど周助もまた、雄弁ではなかった。

「僕も好きだよ、

パチン。
爪は切り終わり、周助の唇は私の足の甲へと降りた。

「好きだよ」

足に掛かった周助の吐息は、熱かった。

 

酸素と皮膚の向こう側

 

−Fin−

 

(2016/03/10)